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大阪家庭裁判所 昭和62年(家)4500号 審判

申立人 山東順二

主文

申立人の氏を「金」に変更することを許可する。

理由

1  本件記録及び関連記録(当庁昭和60年(家)第1257号)によると、次の各事実が認められる。

(1)  申立人は、昭和31年1月4日阿倍野区○○町(その後○○町×丁目に地名変更)に於て韓国籍金福栄、同洪エツ子の二男として出生した。父は飲食店を営み、日本での氏として通称「山東」を称していた。「山東」は本貫の地名で、父方の祖父が来日以来使い始めたものである。

(2)  申立人は、昭和37年4月○○小学校に入学し、氏名は「山東順二」を使用していた。そして、昭和46年4月府立○○○高校に入学し、昭和46年7月、15歳当時父母及び兄と共に日本国籍に帰化した。それまで通称として使用していた「山東順二」がそのまま戸籍上の氏名となつた。

(3)  高校3年生になり、進路問題に関連して、帰化しても朝鮮人として差別されることがあることを知り、悩むうち、朝鮮に関する書物を読んで、申立人は、自分の民族についての従前の認識を改めて行つた。そして、3年生の2学期末頃、友人の一部に対して「キム」(「金」の朝鮮語読み)と自称し始めた。

(4)  申立人は、昭和49年4月○○大学外国語学部朝鮮語科に入学した。同学科は1学年40名定員で、学生の殆んどは日本人であるが、5~7パーセント位韓国籍の学生がいた。

(5)  大学入学後、申立人は「山東」(サントン)と呼ばれるようになつたが、もとの朝鮮の氏を称すべきだと、友人らから指摘されて、「金順二」を氏名として使い始めた。大学での学業は魅力的で、積極的に勉強するなかで、朝鮮人の友人、知人が増えていつた。また、他方では、高校時代山岳部にいた関係で、社会人等の登山グループ「大阪○○○の会」に、大学に入学して1年後に入会し、入会当初から、会員からは、「金さん」という呼び名で呼ばれた。そして、友人から昭和49年末に申立人宛に差出された昭和50年の年賀状の宛名は「金順二」と表示されている。

(6)  申立人は大学3~4回生に進んだ頃、○○大学内に事務局が置かれていた朝鮮学会に入会し、また、日本における朝鮮学の二大団体の一つである○○○○○○の会員になつた。そして、「金順二」として研究発表をしたこともあつた。

(7)  申立人は、大学4回生になつて、東淀川区○○中学校のクラブ活動「朝鮮文化研究会」の講師として週1回招かれ、朝鮮人子弟の教育に関心を抱くようになつた。そして、○○中学校に於いて教育実習をし、朝鮮語と社会科の教員免許を取得した。

(8)  申立人は、昭和53年3月、○○大学を卒業し、大阪府立○○○○高等学校(定時制)教諭に就職した。ここでは、朝鮮語を教え、クラブ活動の朝鮮・文化研究会及びバトミントン部の顧問をしている。同高校の朝鮮人の在校生は7パーセント位であり、全校生の約三割が朝鮮語を選択している。

(9)  申立人の氏名は、職場において、給料袋以外では、学級担任一覧表・職員録等すべてにわたつて、「金順二」と記載されている。

(10)  申立人は、昭和54年11月関西○○○○に入会した。

(11)  申立人は、昭和56年10月、韓国籍李福順と婚姻したが、性格の不一致が原因で、昭和58年1月離婚した。

(12)  申立人は、府立○○○○高校(定時制)で教諭として朝鮮語を教えるかたわら、在日朝鮮人の生き方や子弟の教育について考え、自らの実践をもふまえて、「金順二」として講演したり、意見発表をしている。また、外部から依頼されて、「金順二」として朝鮮語を教えている。

(13)  申立人は、その社会生活の殆んどにおいて「金順二」を使用しており、学校の教員名簿、学校教育計画等にも「金」姓が使用されており、教育上も「金」姓と変更することが好都合であるし、同僚も「金」姓への変更の要望書を書いている。

(14)  申立人は、郵便受けに「金(山東)」と表示し、その両親も「金」姓への変更に同意している。

2  以上認定の事実関係によれば、申立人の帰化は15歳当時であるところ、申立人は高校3年生頃から帰化前の「金」姓に愛着を覚え、大学では「金」姓を使用し、卒業して大阪府立○○○○高等学校(定時制)教諭に就職後も教員名簿、学校教育計画等で「金」姓が使用され、更に生活全般に亘つて「金」姓を永年使用していることが認められるから、申立人の「金」姓は社会的に定着しているとしなければならない。

3  よつて、戸籍法107条1項所定の「やむを得ない事由」があるから、本件申立を認容することとし、主文のとおり審判する。

(家事審判官 惣脇春雄)

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